http://daily.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1459091213/
1 名前:野良ハムスター ★[ageteoff] 投稿日:2016/03/28(月) 00:06:53.24 ID:CAP_USER*.net
『失われた卑弥呼の金印「親魏倭王」の謎』(ムー・スーパーミステリー・ブックス)
http://tocana.jp/images/mu_16.jpg

大和朝廷が開かれる以前、この日本には邪馬台国という“クニ”があったとされる。中国の史書『魏志倭人伝』によれば、紀元3世紀ごろ、当時、倭国と呼ばれた日本を統治していたのは卑弥呼という名の女王だったという。
邪馬台国の所在地をめぐっては畿内説と九州説をはじめ、四国説や沖縄説、さらには海外のスマトラ説、エジプト説などが知られているが、今、大きな転換期を迎えようとしている。考古学的な発見により、ほぼ畿内説で固まりつつあるのだ。最近もまた、これを裏づける発見があった。
『魏志倭人伝』によると、倭国は大きくふたつに分かれていた。卑弥呼に従うクニと敵対する“卑弥弓呼(ひみここ)”を支持するクニがあったのだ。
後者を束ねていたのは狗奴国だった。狗奴国は邪馬台国の南にあったとされるため、方位が正しいとする九州説なら鹿児島あたりに比定され、距離が正しいとする畿内説であれば、東海地方から関東地方にあったと考えられてきた。
実は、この卑弥弓呼のものと思われる墓が見つかったのだ。場所は静岡の沼津市で、高尾山遺跡として知られている。問題の古墳は前方後方墳で、長は約62メートルと、当時としては東日本で最大級だ。築造は3世紀前半と見られており、卑弥呼の時代と重なる。規模から考えて、東海地方を治めていた大王の墓だと推測されている。畿内説からすれば、まさしく卑弥弓呼の墓の可能性が高い。
きわめて重要な遺跡が注目されるきっかけは、なんとも皮肉なことに、人域的な破壊の危機に直面したからだ。地元の要請によって計画した国道建設のルートに高尾山古墳が重なってしまったのだ。道路を作るためには、古墳を一度破壊して、移設する必要が出てきた。これに対して、地元の有識者が協会を立ち上げ、移設反対を強く訴えた結果、幸いにして道路のルートを変更することが議会で決定され、古墳は保存されることとなった。
だが、かなり工事は進んでおり、すでに古墳の上にあった神社は取り壊され、古墳はむき出しの状態。調査発掘も行われていたが、昔の面影はない。聞くところによれば、この工事に関連して、ふたりの方が亡くなっており、地元では祟りではないかとも噂されている。
いずれにせよ、全国的に注目されることとなった高尾山古墳だが、改めて被葬者が卑弥弓呼だったと確認されることとなれば、邪馬台国論争は一気に加速、畿内説で、ほぼ決まったと認識されることになるだろう。
だが、もしそうなった場合、最後に問題となるのは方位である。『魏志倭人伝』は狗奴国を邪馬台国の南に位置づける。邪馬台国を畿内とすれば、東海地方は東。約90度の違いがある。これは確定している九州の対馬、壱岐、松浦から見た邪馬台国や投馬国などの方位も同様で、畿内説が抱える大きな課題のひとつだ。方位の読み替えに関しては、太陽運行の季節変化などがあがられているが、定説にはいたっていない。
これに関して、もっとも大胆な仮説を提示しているのがサイエンス・エンターテイナーの飛鳥昭雄氏だ。飛鳥説によれば、『魏志倭人伝』の方位は正しく、かつ邪馬台国は畿内にあった。間違っているのは、昔の地形と今の地形が同じだという認識にあるとし、かつて日本列島は約90度、時計回りに回転していたと考える。逆転列島倭地理観に立てば、邪馬台国は畿内であり、狗奴国は東海地方になると主張する。
高速プレートテクトニクスという激変論に立った邪馬台国=畿内説は、他に類を見ないほど突拍子もない説にも思えるが、これを支持する人々もいる。日本の歴史を裏から支えてきた秘密組織、八咫烏である。彼らは飛鳥説を認めながら、そのしるしとして、なんと卑弥呼が魏の皇帝から送られた「親魏倭王」の金印の写真を見せられたという。
詳しくは本書に譲るが、高尾山古墳が卑弥弓呼の墓として注目される今、いよいよ邪馬台国論争も大詰めを迎えつつあるのかもしれない。
●三上丈晴(みかみ・たけはる)
1968年、青森県生まれ。学研「ムー」の5代目編集長。筑波大学を卒業後、学習研究社(現・学研)に入社。「歴史群像」編集部を経て、入社1年目より「ムー」編集部に所属。
http://tocana.jp/2016/03/post_9187_entry.html
5 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 00:12:10.37 ID:vmk9eLss0.net
>>1
>「歴史群像」編集部を経て、入社1年目より「ムー」編集部に所属。
すげえ経歴だなwww
可哀想なのか、それとも本人幸せなのか。
18 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 00:20:08.36 ID:lv2rM02o0.net
邪馬台国→大和なら何故女王から男系になったか説明しろよ!
27 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 00:27:09.85 ID:EpJZ20LL0.net
日本二大巫女の戦いのイメージ
ttp://eririn-sama.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/02/18/longcat2.jpg

33 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 00:31:02.89 ID:vQ8VMli1O.net
>>27
何これ、面白すぎるwそしてかわいいw
速攻で保存させて頂きました。
34 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 00:31:47.12 ID:4nbajrSK0.net
関東なんて徳川家康が開墾するまで蝦夷といえるような未開の地だったわけだしな
当時最東端は沼津ぐらいが、発展するには限界だろう
最も発展しやすいのは九州か近畿だろうな
425 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 16:52:54.76 ID:jZya1T3j0.net
>>34
なんでこんなことを信じてるんだろ?
東北にも古墳があるし、奈良時代に関東東北で約100万の人口があったと
推定されているのに。
429 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 16:56:31.83 ID:V+wh6Tfa0.net
>>425
狛江や高麗に渡来人も来てるしな
49 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 00:53:02.03 ID:I/BaBTrg0.net
3世紀ころに卑弥呼がいたのか
天皇はどこにいたんだ?
63 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 01:10:01.04 ID:nsnFBB8k0.net
九州説は、邪馬台国を矮小化して、朝鮮半島をヨイショするための説。
とにかく、古代日本の国家スケールを小さく小さくできる限り小さくしたがるのが九州説。
逆に、近畿説は、邪馬台国を普通の国家としてのスケールに考える説。
素直に、大和地方が邪馬台国の首都であり、卑弥呼は天照大神としている。
67 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 01:13:56.13 ID:nsnFBB8k0.net
日本の歴史学界はマジで腐ってるんだよ。
普通に考えてみろよ。
後漢書や魏志倭人伝の記述と、日本神話がこれだけ一致しているにも関わらず、なぜそれを無視するんだ?
ありえねえだろwww
とにかく、朝鮮半島が日本よりも文明的に進んでいたという前提で歴史をいじくり回すからもうメチャクチャなんだよ。
だから九州説なんて馬鹿げた説が未だに唱えられているのさ。
普通に考えてみろよ。
後漢書や魏志倭人伝の記述と、日本神話がこれだけ一致しているにも関わらず、なぜそれを無視するんだ?
ありえねえだろwww
とにかく、朝鮮半島が日本よりも文明的に進んでいたという前提で歴史をいじくり回すからもうメチャクチャなんだよ。
だから九州説なんて馬鹿げた説が未だに唱えられているのさ。
780 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 01:06:29.60 ID:lQ1n2Byt0.net
>>67
帯方郡から邪馬壹國への距離は最初に書かれてるのに、何故かその距離を遥かに上回る行程になってる訳で。
帯方郡から邪馬壹國への距離は最初に書かれてるのに、何故かその距離を遥かに上回る行程になってる訳で。
71 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 01:16:10.79 ID:MDw63e+x0.net
天皇一派は九州から奈良にやってきて邪馬台国を乗っ取ったわけだけど
なぜ簡単に乗っ取れたか
それは天皇一派が「俺は中国(魏)から来た」って言ったからだよ
魏の王に認められた人間しか持たないものを、天皇と邪馬台国の役人とで見せ合ったと文献には書いてある
それは注意深く読めばわかる
だから邪馬台国は「同じ系列の国なんだね」と納得して天皇に譲ったと文献には書いてある
もちろん文献には皇室を正当化するためのものだから事実はもうちょっと血なまぐさかったとは思うけどね
75 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 01:18:32.05 ID:MDw63e+x0.net
そしておもしろいのは
出雲に対しても天皇は同じ手を使って乗っ取ったんだよ
「天皇と出雲は同じ出身、俺らがあがめるアマテラスとお前等の神のスサノオは姉と弟じゃないか、だから国を譲れ」と
これ事実だとするとすごいけど
天皇のはったりと正当化だよねふつうに考えたら
79 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 01:21:47.99 ID:SrP2P98n0.net
>>75
イメージとしては明治政府と江戸幕府みたいな関係じゃないかなと思う
直接戦闘して一方を殲滅せず
相手側を自分のところに組み入れて
その後の国の運営に活用した
91 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 01:32:35.60 ID:Hh/X80m50.net
邪馬台国が畿内だとしても狗奴国は熊襲でしょ
魏志倭人伝の方位や距離にこだわりすぎ
170 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 07:54:43.33 ID:5Z5ubE/90.net
奈良からは翡翠の勾玉が1個も出土していないのに、卑弥呼の使者は
魏の王様に勾玉を献上したと倭人伝に記載があるぞ、出土していない
地域からどうやれば献上出来るのか知りたいものだなwwww
おまけに農耕や戦争に必要な鉄製品も奈良からは何一つ出ていないwww
172 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 07:57:26.09 ID:svxVgIvQ0.net
卑弥呼=火巫女だろうな。
つまり太陽神の天照大神に仕える巫女。
181 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 08:16:02.41 ID:cracElpX0.net
狗奴国とか、卑弥弓呼とか邪馬台国とか、やたらと狗奴、卑、邪とか悪い文字ばかりが
使われているのは何なの?
これって中国の文献に記載されてた文字なんでしょう?
昔から中国ってオレサマ文化だったってことかいな?
漢委奴国王印ってのもひどいよな
矮小な漢の奴隷国の国王っていう意味だろう
傲慢で高飛車なオレサマ文化だろう
使われているのは何なの?
これって中国の文献に記載されてた文字なんでしょう?
昔から中国ってオレサマ文化だったってことかいな?
漢委奴国王印ってのもひどいよな
矮小な漢の奴隷国の国王っていう意味だろう
傲慢で高飛車なオレサマ文化だろう
225 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 09:00:32.60 ID:INfi6a720.net
>>181
まわりは、東夷 南蛮 西戎 北狄の国だからな
自分が中心で一番えらい
191 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 08:25:00.93 ID:oCIrX/+N0.net
魏志倭人伝が書かれた時期は磁極が移動してる時期で南北の方向が今と違っていた可能性あるんだよな
494 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:31:27.84 ID:CdbsoIaE0.net
>>191
位置関係が確定している
末盧國 → 伊都國 → 奴國 が2つとも「東南」とされていて
で現実と90度ずれている。
実際は東北。
奈良邪馬台国へ「南」表記は東への解釈でむしろ正しい。
不弥国は奴國の「東」だから実際には北の宗像市海沿いを比定しなければならない。
奈良時代は波の荒い日本海側ではなく、穏やかな瀬戸内海を通って奈良へ行っていた。
吉備岡山、奈良コースで確定。
九州はないw
中国では東夷といい近世まで沖縄と本州を混同していた。
南へ水行30日陸行一月
ちなみに仮に日本海側で降りたら南へ方向を変える必要がある。
位置関係が確定している
末盧國 → 伊都國 → 奴國 が2つとも「東南」とされていて
で現実と90度ずれている。
実際は東北。
奈良邪馬台国へ「南」表記は東への解釈でむしろ正しい。
不弥国は奴國の「東」だから実際には北の宗像市海沿いを比定しなければならない。
奈良時代は波の荒い日本海側ではなく、穏やかな瀬戸内海を通って奈良へ行っていた。
吉備岡山、奈良コースで確定。
九州はないw
中国では東夷といい近世まで沖縄と本州を混同していた。
南へ水行30日陸行一月
ちなみに仮に日本海側で降りたら南へ方向を変える必要がある。
195 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 08:29:18.57 ID:zBzsNEO10.net
卑弥呼の墓は奈良県の箸墓古墳だよ。
邪馬台国=奈良は学問的に立証されている。
邪馬台国=奈良は学問的に立証されている。
509 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:53:44.01 ID:CdbsoIaE0.net
>>195
纒向などの重要な遺跡に、北部九州の影響が殆ど見られない。
土器などがほぼ西日本全域から集まっているのに、北部九州の土器は少ししか無く、
征服者としての九州勢の影響は全く見られない。
東征も東遷も事実上考古学的に否定されている。
九州説はあほ相手にビジネスする極悪人。
纒向などの重要な遺跡に、北部九州の影響が殆ど見られない。
土器などがほぼ西日本全域から集まっているのに、北部九州の土器は少ししか無く、
征服者としての九州勢の影響は全く見られない。
東征も東遷も事実上考古学的に否定されている。
九州説はあほ相手にビジネスする極悪人。
510 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:56:23.18 ID:rKZcCSkS0.net
>>509
神武の東征が嘘だとすると
なぜそんな嘘を記紀に書いたんだ?
528 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:29:43.40 ID:D09D0C0r0.net
>>510
九州は古墳の分布を見ると大古墳が登場するのは古墳時代の半ば
そしてその古墳が作られるのはいわゆる日向の地
で、ちょうどこの時代に仁徳天皇が日向の女性を后に迎えている
朝廷はここに九州統治の基盤を固める為に始祖神話を取り入れたんじゃないかな
この時期は朝廷が朝鮮半島に進出するようになるから、
その足場として九州をより強く支配する必要があった時期だからね
そういう政治的背景じゃないかと思っている
213 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 08:51:43.14 ID:cracElpX0.net
後漢の時代に和人が漢に訪れて、「和の国には日の巫女様がいます」と言ったのを
ヤマトコトバがわからんものだから、「矮小な国から使者が来て卑の弥呼という王がいる
と言った」と書き記したんだろう
282 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 10:11:09.50 ID:5Z5ubE/90.net
福岡県北部から中部(筑前、筑豊地域)にかけては神功皇后の伝説が沢山存在
しているが奈良には全く無い。要するに神功皇后も卑弥呼も北部九州
に住んでいた証拠だ。
345 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 13:08:19.13 ID:h+7Nji4g0.net
日本列島が動くほどの地殻変動があれば、世界中に天変地異レベルの影響があったはず。
でも、そんな記録は他国の書物にはない。
346 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 13:09:33.53 ID:AYxC3HPv0.net
卑弥呼はどの天皇に倒されたの?
卑弥呼も天皇に朝貢してたの?
卑弥呼も天皇に朝貢してたの?
348 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 13:11:24.68 ID:h+7Nji4g0.net
>>346
卑弥呼が誰かに討たれた記述はないから、普通に寿命で死んだんじゃないかな
卑弥呼が誰かに討たれた記述はないから、普通に寿命で死んだんじゃないかな
353 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 13:18:48.19 ID:AYxC3HPv0.net
>>348
邪馬台国の跡継ぎは何してたの?
天皇が邪馬台国を屈服させたのはいつだ?
邪馬台国の跡継ぎは何してたの?
天皇が邪馬台国を屈服させたのはいつだ?
360 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 13:37:23.69 ID:fZn1NXz1O.net
>>353
邪馬台国を当時の魏の読み方で読むと、
「ヤマト」
つまりは大和朝廷の起源だった。
って言う人がいてね。
410 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 15:43:43.67 ID:jeX0a51j0.net
>>360
書き込むんだったら、最低1時間ぐらい勉強してからにしろやw
人間は移住するとき、移住先の地名は、元の居住地の名前を付けるという
これは古今東西にわたっての人間の習性、
アメリカなんかインディアンが付けた名前以外は、ほとんど元のイギリスの地名にNEWをかぶせたも
ニューヨーク ニューカッスル ニューオーリンズ(これはフランス陣が、オルレアンにもとづいて)
ニューハンプシャー ・・・ ・・・
オーストラリア、ニュージーランドモソウ
412 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 15:50:14.79 ID:K4X90m7x0.net
>>410
日本での例はありますか?ただし江戸時代以前で
413 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 16:05:54.63 ID:Vy/OBex90.net
魏志倭人伝の本文ってあまり間に受けない方がいいぞ
ちくまの三国志持ってるヤツならすぐわかると思うが、教科書では倭人の条しか教えてくれないから知らないヤツ多いんだよな
東夷伝烏丸鮮卑倭人の条の最初に陳寿/著者が自分で書いてるから
陳寿は洛陽にいるんだが、そこに今の瀋陽あたりの役人がやってきて、この役人が最近東方諸国を旅してきた人から聞いた事を洛陽で報告を受けて、それを書き記したのが魏書東夷伝だから
また聞きというか、孫聞きなので伝言ゲームみたいな状態になってるぞ
>>412
戸越銀座とか砂町銀座とか銀座を名乗る街ってたくさんあるじゃん
小京都ってのも日本各地にあるし
たぶん日本中で邪馬台国って名前つけるのが流行ってたんだよ、俺らのご先祖様のやる事だし
416 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 16:18:46.94 ID:K4X90m7x0.net
>>413
支那に知られるような、かつ大多数の共通認識である大地域名と、
少数の共通認識かつ極狭地域名は自ずと扱いが違うと思います
大地域名を勝手に変えたり、好き勝手に呼んでしまうと人々は混
乱しますね?
369 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 14:06:22.50 ID:kFXCA2mL0.net
なんでパチもんみたいな名前?
卑弥呼って漢字にすごい意味とかパワーがあるのか?
卑弥呼って漢字にすごい意味とかパワーがあるのか?
370 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 14:08:35.23 ID:N9uB1obf0.net
卑弥シリーズはじめましたの?
376 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 14:23:09.44 ID:nMMWoq9w0.net
>>369-370
現代語に訳すると
卑弥呼→呼姫
卑弥弓呼→弓呼姫
だと誰かが言ってた
現代語に訳すると
卑弥呼→呼姫
卑弥弓呼→弓呼姫
だと誰かが言ってた
453 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 18:22:06.27 ID:CdbsoIaE0.net
>>376
○ 日の巫女のキャラクター。
a モモソ姫は崇神のおば
b トヨ 豊鍬入姫命は崇神の娘 豊鍬入姫命 もももそひめを継いで「祀り」を担当。
c ヤマト姫は垂仁の娘 崇神の孫
三人三代共に d皇女であり 「卑弥呼宗女」適合
e天照と鏡を祀り託される神託 「鬼道」適合
f伊勢神宮の斎王である。「王」適合
伊勢神宮は天照と豊トヨを祀る場所。
豊鋤比賣命、拜祭伊勢大神之宮也。
伊勢神宮モモソトヨヤマト姫、四つとも鏡と天照大神が託され祀られている。
ひみこの言葉の性格から日女子 日の巫女どちらでも意味が適合する。
倭人伝が崇神朝、垂仁朝の西暦200年前後であることは確実。
日本人のアイデンティティの決定的な核になる要素がつまっている。
○ 日の巫女のキャラクター。
a モモソ姫は崇神のおば
b トヨ 豊鍬入姫命は崇神の娘 豊鍬入姫命 もももそひめを継いで「祀り」を担当。
c ヤマト姫は垂仁の娘 崇神の孫
三人三代共に d皇女であり 「卑弥呼宗女」適合
e天照と鏡を祀り託される神託 「鬼道」適合
f伊勢神宮の斎王である。「王」適合
伊勢神宮は天照と豊トヨを祀る場所。
豊鋤比賣命、拜祭伊勢大神之宮也。
伊勢神宮モモソトヨヤマト姫、四つとも鏡と天照大神が託され祀られている。
ひみこの言葉の性格から日女子 日の巫女どちらでも意味が適合する。
倭人伝が崇神朝、垂仁朝の西暦200年前後であることは確実。
日本人のアイデンティティの決定的な核になる要素がつまっている。
473 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 19:22:54.75 ID:rKZcCSkS0.net
>>453
斎王=王は無理あるよな
お前も自分でもわかってると思うけど
斎王なら中国の文献にも斎王と書く
でも中国の文献には単に倭王と書いてる
単なる斎王が天皇を差し置いて親ギ倭王の金印を受け取るのはありえない
571 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:18:11.73 ID:VJ5jfaM70.net
>>473
魏人が倭人の政治システムを理解していたかどうかという疑問もある。
ポカホンタスは知っているだろうか?
ディズニー映画のヒロインになった人物だ。
彼女はイギリス人に「皇帝ないし部族指導者の娘である姫」だと思われていた。
しかし、これはイギリス人が欧州の価値観から誤解したものだった。
以下は父親のポウハタン酋長ワフンスナコックについてウィキペディアに書かれた解説だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A6%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%83%B3%E9%85%8B%E9%95%B7
>インディアンを蔑視も露わに「裸の野蛮人(naked savage)」と称しているジョン・スミスは、この文章の中でポウハタン酋長
>を「皇帝」と呼んでいるが、これはインディアンの社会システムをまったく理解していないスミスの思い込み、勘違いである。
>ポウハタンの社会は「ロングハウス」を議会中心とした合議制であり、独任制の「首長」や「王」は存在しない。
>そもそもインディアンの酋長は部族の「調停役」であり、「階級」など存在しない。火の両側に酋長が並んでいるのはロング
>ハウスで連座の合議を行っているからである。
ポウハタン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A6%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%83%B3
371 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 14:12:57.56 ID:FUKhvU/R0.net
九州が単なる一地方だとすると高天原とか天の岩戸とかの伝説が
宮崎にあるのはどうしてなん?
385 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 14:41:46.89 ID:xA81rsAw0.net
地元では古墳残して道路迂回させる方向に固まりつつあるよ
市のHPにその辺の資料上がってる
389 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 14:47:57.88 ID:4hKhPRwk0.net
>>385
JAなんすんの東側に確保してる用地がどうなるか気になるなw
迂回したら使いようが無さそうな。
西にまわしてなんすんごと踏み潰すかな。
395 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 14:55:26.63 ID:N+0reUffO.net
松本清張は日本=魏のコロニー(植民地)を唱えてたね。漢字を使ってるのは、
自主的に学んだわけではなく、当然宗主国から押し付けられた結果。
一度も他国の植民地になったことないという日本の定説をまさに覆す有力説。
397 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 15:03:26.03 ID:BJr9ADwc0.net
>>395
三國時代に日本は漢字使っているのか?
407 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 15:21:55.04 ID:CYM89Lwp0.net
>>397
日本は飛鳥時代になっても外交文書、戸籍、徴税記録は渡来人任せ
奈良時代以降に纏められた古事記はそれまで口伝だった
日本人が漢字を文書において利用するのは相当時間が下るはず
438 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 17:41:29.95 ID:U/Vy/xk30.net
邪馬台国の時代を崇神天皇前後と考えると、この時期には大きな内乱が起こってるんで内容的にも面白い
武埴安彦の乱、狭穂彦の乱と皇族の中の内乱が立て続けに発生してる
これが卑弥弓呼の事だと考えると魏志倭人伝の記述とも丁度いいな
440 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 17:44:58.02 ID:V+wh6Tfa0.net
>>438
考古学的には弥生晩期より後に大きな戦乱はない
444 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 18:00:01.02 ID:VJ5jfaM70.net
>>440
崇神、垂仁、景行、成務、仲哀、応神のあたりの西日本は戦乱というより離脱した勢力に軍事的圧力をかけて再統合した感じ。
461 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 18:59:43.01 ID:V5CPQViv0.net
ついにトンデモ理論を持ち出さないと畿内説が成り立たなくなったか
発掘結果、文献学的にも北部九州でほぼ確定して
考古学的に畿内説はすでに否定されている
発掘結果、文献学的にも北部九州でほぼ確定して
考古学的に畿内説はすでに否定されている
462 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 19:00:56.23 ID:CdbsoIaE0.net
>>461
論より証拠
論より証拠
471 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 19:18:15.84 ID:3xtn7cpk0.net
>>462
魏志倭人伝に記述のある絹、鉄鏃、勾玉、刀の出土数は、九州のほうが圧倒的に多い
また魏からもらったと思われる鏡の出土数も九州のほうが多い
墓は棺あって槨なしと記述されていて、九州の墓はこれに該当するが、畿内の墓は槨がある
これが考古学的証拠
魏志倭人伝では帯方郡から邪馬台国まで12000里
伊都国まで10500里だから邪馬台国は北部九州の範囲にある
邪馬台国のあるのは周長5000里の島で、東に倭人の住む島がある、この地形は本州には該当しない
伊都国の軍隊が邪馬台国以北の国を支配していた記述があるが、
畿内説をとると伊都国の軍隊が西日本を一体を支配していたことになり、現実的でない
これが文献学的な証拠
で、畿内説の証拠は?
魏志倭人伝に記述のある絹、鉄鏃、勾玉、刀の出土数は、九州のほうが圧倒的に多い
また魏からもらったと思われる鏡の出土数も九州のほうが多い
墓は棺あって槨なしと記述されていて、九州の墓はこれに該当するが、畿内の墓は槨がある
これが考古学的証拠
魏志倭人伝では帯方郡から邪馬台国まで12000里
伊都国まで10500里だから邪馬台国は北部九州の範囲にある
邪馬台国のあるのは周長5000里の島で、東に倭人の住む島がある、この地形は本州には該当しない
伊都国の軍隊が邪馬台国以北の国を支配していた記述があるが、
畿内説をとると伊都国の軍隊が西日本を一体を支配していたことになり、現実的でない
これが文献学的な証拠
で、畿内説の証拠は?
485 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:24:00.88 ID:CdbsoIaE0.net
>>471
玉、剣、鏡はそれぞれ他の遺跡でも頻出すること、
勾玉・管玉は縄文期から日本全国に見られる(が海外に見られない)形態であること、
北九州の他の遺跡を見てもこの3つがセットと見なされていた痕跡に乏しいこと
などから言えば偶然の一致を針小棒大に言っているだけだろうねえ
玉、剣、鏡はそれぞれ他の遺跡でも頻出すること、
勾玉・管玉は縄文期から日本全国に見られる(が海外に見られない)形態であること、
北九州の他の遺跡を見てもこの3つがセットと見なされていた痕跡に乏しいこと
などから言えば偶然の一致を針小棒大に言っているだけだろうねえ
495 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:32:06.00 ID:3xtn7cpk0.net
>>485
で、畿内説の証拠はまだ提示てきないのか?
邪馬台国の根拠となる発掘物は北部九州のほうが圧倒的に多いし、畿内では墓の形も違う
畿内説では魏志倭人伝の記述と一致するところを見つけることすら難しい
考古学的、文献学的に一致するのは北部九州しかない
で、畿内説の証拠はまだ提示てきないのか?
邪馬台国の根拠となる発掘物は北部九州のほうが圧倒的に多いし、畿内では墓の形も違う
畿内説では魏志倭人伝の記述と一致するところを見つけることすら難しい
考古学的、文献学的に一致するのは北部九州しかない
496 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:33:20.12 ID:CdbsoIaE0.net
>>495
北九州の場合,むしろ 銅鐸が埋められる時期に,
北九州でも銅矛を埋めるようになっていく
無槨だった墳墓にヤマト・吉備系の槨を付けることが増えていく。
弥生時代後期から末期にかけて瀬戸内系土器の比率が急激に高まり,
固有土器の出土率がどんどん減っていくので,
3世紀後半に伊勢・ヤマト・吉備・出雲連合の進出を受けたというほうが
土器の出土から言うとしっくりくる説明になる。
北九州の場合,むしろ 銅鐸が埋められる時期に,
北九州でも銅矛を埋めるようになっていく
無槨だった墳墓にヤマト・吉備系の槨を付けることが増えていく。
弥生時代後期から末期にかけて瀬戸内系土器の比率が急激に高まり,
固有土器の出土率がどんどん減っていくので,
3世紀後半に伊勢・ヤマト・吉備・出雲連合の進出を受けたというほうが
土器の出土から言うとしっくりくる説明になる。
500 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:40:12.59 ID:3xtn7cpk0.net
>>494
魏志倭人伝は本州の記述がほとんどないから畿内に邪馬台国はない
魏志倭人伝では帯方郡から邪馬台国まで12000里
伊都国まで10500里だから邪馬台国は北部九州の範囲にある
邪馬台国のあるのは周長5000里の島で、東に倭人の住む島がある、この地形は本州には該当しない
畿内説ではこの記述が説明できない
それいに瀬戸内海を通って大阪湾上陸したとしても、陸行一月だと関東まで到達する
水行30日陸行1月は距離を水増ししていると考えるべき
>>496
それはおまえの妄想だろ
学問的な証拠で語れよ、論より証拠で示せ
魏志倭人伝は本州の記述がほとんどないから畿内に邪馬台国はない
魏志倭人伝では帯方郡から邪馬台国まで12000里
伊都国まで10500里だから邪馬台国は北部九州の範囲にある
邪馬台国のあるのは周長5000里の島で、東に倭人の住む島がある、この地形は本州には該当しない
畿内説ではこの記述が説明できない
それいに瀬戸内海を通って大阪湾上陸したとしても、陸行一月だと関東まで到達する
水行30日陸行1月は距離を水増ししていると考えるべき
>>496
それはおまえの妄想だろ
学問的な証拠で語れよ、論より証拠で示せ
502 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:43:06.89 ID:CdbsoIaE0.net
>>500 妄想する前に倭人伝読んでから書き込んだほうがいい。
テリトリーについて。
卑弥呼の西暦200年ごろまでにヤマト大和邪馬台は北九州を征服済み
(1)+(2)=女王国の勢力範囲
(1)+(2)+(3)=倭国
(1)+(2)+(3)+(4)=倭人が住む地域
(1)女王国
邪馬台国、投馬国、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、
好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、
鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国
(2)女王国以北(女王国に服属)
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国
(3)女王国と対立してる国
狗奴国
(4)倭国に含まれないが倭人が住む地域
女王国の東側の海から1000里の国
(5)倭人ではない人種が住む国
侏儒国、裸国、?歯国
奴國
此女王境界所盡 ←
北九州までが女王国のテリトリーと書いてある。
なこく いとこくの比定地は確定済み。
古代大和朝廷の勢力範囲とも一致
テリトリーについて。
卑弥呼の西暦200年ごろまでにヤマト大和邪馬台は北九州を征服済み
(1)+(2)=女王国の勢力範囲
(1)+(2)+(3)=倭国
(1)+(2)+(3)+(4)=倭人が住む地域
(1)女王国
邪馬台国、投馬国、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、
好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、
鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国
(2)女王国以北(女王国に服属)
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国
(3)女王国と対立してる国
狗奴国
(4)倭国に含まれないが倭人が住む地域
女王国の東側の海から1000里の国
(5)倭人ではない人種が住む国
侏儒国、裸国、?歯国
奴國
此女王境界所盡 ←
北九州までが女王国のテリトリーと書いてある。
なこく いとこくの比定地は確定済み。
古代大和朝廷の勢力範囲とも一致
504 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:49:13.06 ID:3xtn7cpk0.net
>>502
何の反論にもなってない
邪馬台国が北部九州にあれば全く矛盾のない記述になるが
(4)倭国に含まれないが倭人が住む地域
女王国の東側の海から1000里の国
これはどこの地域を示しているんだ?本州の東の海は太平洋だろ
邪馬台国のあるのは周長5000里の島、これは畿内説ではどう説明をつける?
507 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:52:35.14 ID:rKZcCSkS0.net
>>504
九州は周長5000里なん?
508 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 20:52:57.59 ID:glKilYOw0.net
>>504
そもそも距離も方角も合ってないという当たり前の結論が何故出ない?
474 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 19:24:34.83 ID:D09D0C0r0.net
?前方後方墳の成立は、前方後円墳の成立の時代とあまり差が無い
?前方後方墳と前方後円墳は同時期、同地域にも分布している
?前方後円墳は主に大和朝廷から半ば独立的な有力地方豪族がいたと思われる土地に大きい物が多い
?古墳時代が進むと数、規模ともに縮小していく
これらの傾向を考えると
古墳は初期の頃は半独立勢力と、中央の豪族との間に前方後方墳、前方後円墳の二つの墳形を用いてた
と言う風に考える事が出来るな
で、時代が進むとこういった勢力が朝廷の支配下に取り込まれて前方後方墳は廃れていく
出雲のような形式的な独自性が認められている地域は、後の時代にも前方後方墳が作られている
これらは記紀の豪族の記述や出雲の独自性などからも辻褄が合う
475 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 19:27:26.88 ID:I+nVwLBf0.net
>>474
出雲は最後まで前方後方墳を造ってたけど
確か最古の前方後方墳は滋賀だぞ(´・ω・`)
482 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 19:55:31.73 ID:D09D0C0r0.net
近畿に成立した大和朝廷が最初は緩やかな宗教的連合によって各地のクニグニとの同盟を結び
それが四道将軍の遠征や、景行天皇、日本武尊などの行動、成務天皇の統治制度の確立などによって次第に中央集権的な支配体制に移行していく
と言う流れが史書、遺跡の両方から読み取る事が出来るな
記紀の記述が思ってるよりもずっと史実を描いていると分かって面白いな
483 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:08:58.23 ID:D09D0C0r0.net
古代の日本の姿はこうして見ると細かい部分はまだまだ未解明だけど、
大雑把なアウトラインはほぼ明確になって来たね
今はより細かい部分を明らかにするための詰めの段階になってる感じ
いまだに何もわかってないと思って適当な事ばっかり言ってるような人は時代に取り残されてるな
484 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:11:33.61 ID:rKZcCSkS0.net
>>482
>>483
わかってきてるのはヤマト朝廷成立以後の話でしょ
それ以前の話についてはほとんどわかってない
511 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 20:58:06.31 ID:rKZcCSkS0.net
倭国大乱はどことどこの戦だったんだ?
邪馬台国=ヤマトだとするなら
出雲とヤマトの戦争だったのか?
515 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:06:45.46 ID:3xtn7cpk0.net
>>507
周長5000里を九州に当てはめれば、北半分ぐらいの大きさ
邪馬台国の支配範囲とほぼ一致する
>>508
それを言い出したら世界中のどこでも邪馬台国の比定地にできる
魏志倭人伝は、伊都国までは距離も方角も良く一致している
それからは日数で距離を書いてあるので混乱の元になているが、
伊都国から邪馬台国まで1500里、1里=80m程度なので北部九州を出ることはない
>>511
魏志倭人伝は北部九州の極狭い範囲の記述
恐らく伊都国と邪馬台国の争い、伊都国は男王がいて邪馬台国に匹敵する国だったことが伺える
518 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:12:41.03 ID:rKZcCSkS0.net
これが一番筋通ってるけどなあ
南九州説
557 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 22:06:13.78 ID:rKZcCSkS0.net
俺は>>518を信じるなあ
いちばん筋通ってるし
南九州なら天皇が天孫降臨した場所でもあって
邪馬台国とヤマト朝廷のつながりも示してる
520 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 21:15:54.81 ID:5Z5ubE/90.net
倭人伝には倭国大乱と記載があるが奈良で戦闘があった形跡は全く無い、
福岡や出雲ではあちこちで戦闘の形跡があり、邪馬台国とは福岡、佐賀、
大分北部の一帯を指している。その中心地が筑前町付近だな。そもそも
魏使は奈良に行った形跡は全く無いので、奈良は邪馬台国とは
一切無関係な地域である事は、はっきりしている。
531 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 21:36:56.34 ID:PZRai/a+0.net
漢委奴国王、これを漢の倭の奴国王と読むのはおかしいんだよね。倭の属国である奴国に最上級の金印を与えるのは考えられない。
これは漢の倭(奴)国王と読むべきではないか?
それなら東征はAD50年〜200年の間に起こったことで邪馬台国の時代は畿内に大きな権力は移ったと思う。
534 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:40:34.83 ID:CdbsoIaE0.net
>>531
いと国もな国も弥生時代からの大国
倭も昔から認識されている
奴国でも倭国でもどちらでもいい
奴國
此女王境界所盡 ←
北九州までが女王国のテリトリーと書いてある。
なこく いとこくの比定地は確定済み。
古代大和朝廷の勢力範囲とも一致
>>502
545 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 21:55:36.88 ID:w0ch6b7F0.net
機内に戦乱が無かったからこそ巨大な古墳ができあたんだろ
そんで九州の遺跡は臨戦態勢だ
548 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:58:19.83 ID:rKZcCSkS0.net
>>545
倭国大乱が九州で起きたのなら邪馬台国も九州にあるってことになりそうだけど
倭国大乱ってのが謎が多いよな
記紀には一切記述してないし
559 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 22:08:41.17 ID:I+nVwLBf0.net
そもそもが邪馬台国や卑弥呼は
日本の歴史から消されてる
天皇家の祖先が高千穂に天下りし
神武天皇が東遷して大和朝廷を建てる
こういうのが残ってる九州が
邪馬台国なのもありえないのよ
歴史から消された土地が邪馬台国なのよ(´・ω・`)
565 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:13:57.55 ID:N+0reUffO.net
日本は、魏のコロニーで、そのコロニーを直接支配するのが楽浪・帯方郡つまり朝鮮。
要するに中国>朝鮮>日本という植民地体制だったと、松本清張は著作で書いてるね。
567 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:15:34.09 ID:w0ch6b7F0.net
>>565
朝鮮と日本では地位が違う
日本には複数の金印が与えられてる
577 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:24:21.13 ID:YI54k0II0.net
魏志倭人伝の「南」を「東」に変えるだけで
邪馬台国は大和国になるわけだから、大きな問題はない。
578 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 22:24:57.82 ID:D09D0C0r0.net
・中国史は一貫して邪馬台国と大和朝廷を同じものとして扱っている
・中国は邪馬台国と他の国を混同していない
・古墳は常に近畿を中心として分布して大きな変化は見られない
・九州の古墳は朝廷が后を取るまでは中規模古墳しかなくその地位はあまり重要とは言えない
と言う総合的な面から考えて近畿以外の場所にそれを求めるのはかなり難しい
・中国は邪馬台国と他の国を混同していない
・古墳は常に近畿を中心として分布して大きな変化は見られない
・九州の古墳は朝廷が后を取るまでは中規模古墳しかなくその地位はあまり重要とは言えない
と言う総合的な面から考えて近畿以外の場所にそれを求めるのはかなり難しい
588 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 22:30:27.83 ID:rKZcCSkS0.net
>>578
それだよな
邪馬台国=ヤマト朝廷なんだろうなとは思う
なぜ記紀に卑弥呼の記述がないんだ?
それだよな
邪馬台国=ヤマト朝廷なんだろうなとは思う
なぜ記紀に卑弥呼の記述がないんだ?
676 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 23:13:55.55 ID:jZya1T3j0.net
>>588
ヒメミコだよ。
678 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 23:15:10.53 ID:rKZcCSkS0.net
>>676
「国内を治めた王としての卑弥呼」像はまったく見えないじゃん
696 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 23:31:44.70 ID:VJ5jfaM70.net
>>678
魏人が彼らの文化圏での王だとしたが、倭人側が魏人と同じ価値観で卑弥呼を担いでいたかはわからんよ。
異文化での誤解があるのは>>571に例を出した。
589 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 22:31:42.41 ID:D09D0C0r0.net
九州は広域連合を作れていないのが遺跡を見ると分かる
各クニグニが争い続けてまとまっていない
出雲や纏向の広域連合にもあまり積極的に関わっていないのは土器や祭器の流入などからも見える
祭器や墓制なども独自性が強い
そんな中で宗教的な広域連合をいち早く確立して、
広範囲を支配下に収めた近畿の勢力に服属する事になったんだろうと思う
各クニグニが争い続けてまとまっていない
出雲や纏向の広域連合にもあまり積極的に関わっていないのは土器や祭器の流入などからも見える
祭器や墓制なども独自性が強い
そんな中で宗教的な広域連合をいち早く確立して、
広範囲を支配下に収めた近畿の勢力に服属する事になったんだろうと思う
595 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 22:34:38.08 ID:rKZcCSkS0.net
>>589
でもそれは邪馬台国九州説を何も否定しないよな
独自の文化をほこった九州の邪馬台国が、本州勢力のヤマトに負けて服属したというストーリーもありえる
でもそれは邪馬台国九州説を何も否定しないよな
独自の文化をほこった九州の邪馬台国が、本州勢力のヤマトに負けて服属したというストーリーもありえる
612 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 22:44:34.23 ID:D09D0C0r0.net
>>595
「そこだけ」見ればね
繰り返しになるけど他の資料との整合性も考えないといけない
中国は一貫して近畿に中心があったと書いているし、古墳の分布も同様
九州が弥生末期からそういう中心的地位にあった事はない
その上、九州を統一してた、もしくは九州の広い範囲がどこかのクニによって統合されていたと言う形跡もない
これがないと邪馬台国の記述とそもそも合致しない
少なくとも北九州を統合するような政権が無いといけないわけだからね
だけど残念ながらそういう痕跡はない
「そこだけ」見ればね
繰り返しになるけど他の資料との整合性も考えないといけない
中国は一貫して近畿に中心があったと書いているし、古墳の分布も同様
九州が弥生末期からそういう中心的地位にあった事はない
その上、九州を統一してた、もしくは九州の広い範囲がどこかのクニによって統合されていたと言う形跡もない
これがないと邪馬台国の記述とそもそも合致しない
少なくとも北九州を統合するような政権が無いといけないわけだからね
だけど残念ながらそういう痕跡はない
624 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 22:49:19.60 ID:rKZcCSkS0.net
>>612
邪馬台国は九州にあったけど
もっとでかい勢力が奈良にあった
中国の使節は九州より東には行かなかったから奈良のことは倭人伝には書いてない
って考えも成立する
邪馬台国は九州にあったけど
もっとでかい勢力が奈良にあった
中国の使節は九州より東には行かなかったから奈良のことは倭人伝には書いてない
って考えも成立する
627 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 22:51:21.07 ID:D09D0C0r0.net
>>624
本当に何度も申し訳ないんだけど後の資料も全部含めて中国は一貫して近畿の同じ国だと書いてる
更にしつこいようだけど使節の区別などから中国は他の国と邪馬台国を混同してない
そういうほか資料との整合性も考慮しないと説にならない
630 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:52:22.80 ID:w0ch6b7F0.net
>>627
旧唐書無視かよ
650 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 23:00:31.03 ID:D09D0C0r0.net
>>630
もしかして「別種」のあれ?
上でも書いたけど時期的にも日中の歴史を見ても壬申の乱の事だよ
もういい加減それを持ち出して別だ別だ言うの恥ずかしいから止めて欲しい
阿倍仲麻呂の記事も同時に書いてあるしね
ついでに言うなら「阿毎氏は」は用明天皇だと新唐書に書いてるよ
655 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 23:04:47.18 ID:w0ch6b7F0.net
>>650
旧唐書が書かれた時代は、まあ西日本は”日本”だよ
壬申の乱前後は日本だよそりゃ
わざわざ倭国って言ってるのを曲げるな
593 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:33:50.71 ID:NvuB/Pza0.net
東の海を渡ると別の倭人って書いてあるね。邪馬台国=九州 大和朝廷=畿内
これで決まりさ
597 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 22:36:00.15 ID:nws6Sw4c0.net
やっぱ客観的に見ても畿内説で決まりつつあるんだな
600 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:37:44.94 ID:w0ch6b7F0.net
だから近畿に邪馬台国を比定するなら倭国大乱と神武、トヨが説明できねえだろ>>597
608 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:42:26.02 ID:CWI86pBA0.net
>>600
海上交通権をかけて瀬戸内海の戦いだったって可能性はないかな?
正直関門海峡を封鎖されると近畿地方は交易に打撃ありそうだし
611 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:44:24.87 ID:w0ch6b7F0.net
>>608
魏志倭人伝て短いながら倭国の軍事施設に言及してるだろ
それが機内に存在しないのよ
636 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:54:55.81 ID:CWI86pBA0.net
>>611
軍事施設に該当するものってなんですか?
625 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 22:49:41.24 ID:vGNOO1As0.net
卑弥呼は、おそらく女王を意味するヒメミコが訛ったものだろう
ヒミココも同じく、尊称がなまったものと考えられる。
卑弥呼の時代
三世紀前半は、崇神天皇や垂仁天皇の時代だったと考えられる
この時代にあった大乱
武埴安彦王の乱や沙穂彦王の乱などが
倭の大乱の招待だったと考えられなくもないがね
ヒミココも同じく、尊称がなまったものと考えられる。
卑弥呼の時代
三世紀前半は、崇神天皇や垂仁天皇の時代だったと考えられる
この時代にあった大乱
武埴安彦王の乱や沙穂彦王の乱などが
倭の大乱の招待だったと考えられなくもないがね
665 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 23:09:01.03 ID:PZRai/a+0.net
>>625
記紀には書けなかったと思っている。
卑弥呼の記述が記紀に直接的には記載されていないこと。
箸墓が吉備様式の古墳であること。
崇神天皇は吉備征服を行っていること。
モモソヒメの神が大物主であることなどから、
崇神天皇が邪馬台国を簒奪した王ではないか。
崇神天皇の名前も崇という反乱クーデターを表す文字と神という創始者を表す文字があり、なんとも不思議な名前だし。
記紀には書けなかったと思っている。
卑弥呼の記述が記紀に直接的には記載されていないこと。
箸墓が吉備様式の古墳であること。
崇神天皇は吉備征服を行っていること。
モモソヒメの神が大物主であることなどから、
崇神天皇が邪馬台国を簒奪した王ではないか。
崇神天皇の名前も崇という反乱クーデターを表す文字と神という創始者を表す文字があり、なんとも不思議な名前だし。
673 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 23:11:36.30 ID:w0ch6b7F0.net
>>665
崇神はむしろ簒奪された側の可能性もある
691 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 23:28:12.67 ID:VJ5jfaM70.net
>>665
通常は卑弥呼と豊与は倭迹迹日百襲姫命と豊鍬入姫命に比定される。
崇神天皇との関係はヒメヒコ制で説明される。
>崇神天皇の名前も崇という反乱クーデターを表す文字と神という創始者を表す文字があり、なんとも不思議な名前だし。
この諡号は疫病鎮圧のために天照大神を移したり大物主の祭祀をその子孫にさせたりとかの伝承の反映でしょ?
崇が反乱だとか、現代中国語でそういう意味だとかなのか?
703 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 23:37:16.81 ID:PZRai/a+0.net
>>691
豊鍬入姫命に命じて伊勢神宮を作らせた。そこで天照を祭った。
だから合ってると。
>>691
>崇
崇峻 崇徳 崇道 そして崇神
717 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 23:51:34.30 ID:VJ5jfaM70.net
>>703
もしかして「逆説の日本史」読者?
723 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 23:56:28.45 ID:PZRai/a+0.net
>>717
うん。彼の怨霊信仰の洞察は鋭いと思う。
736 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/29(火) 00:28:38.94 ID:itoydCPO0.net
>>723
崇の字そのものには反乱の意味はないし、日本書紀とそれ以降の諡号は別人が考えているわけだが、それらの価値観に
連続性があるのかは証明できていない。
そもそも、崇の字については崇徳院は祟徳院と書くとかから展開したものだ。
崇神天皇の崇までそうだとするのは強引だな。
738 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 00:29:15.10 ID:Ajn7byId0.net
>>665
垂仁天皇の際に起きた沙穂彦王の乱
この乱は、記紀では沙穂彦王が天皇に反したとあるが
実態は逆だったのではないか
って考える事はあるよ
沙穂彦王の祖母は春日の建国勝戸女
まさに建国を意味するような名前の女性だ
そして当然、女王だからシャーマンだったことになる
彼女こそ、魏志で書かれた卑弥呼ではないか
そしてその娘の沙穂の大闇見戸女が、卑弥呼の後継者のトヨだった
もともと畿内は沙穂氏が支配していたが
新興勢力の三輪氏(大王氏)がのっとったのではないかとね
垂仁天皇が沙穂の姫を妻にしていたことも、それで説明がつくからね
ちょうど、豊臣と徳川の関係に似ているかな
対抗馬となる強力な氏族に対して、姻戚関係を強化していったが
結局、衰退した畿内の王であった沙穂氏が滅んだって感じだ
祟神天皇の功績も、前王朝のやったことを記紀に取り込んだとも考えられる
ま、この時代のことは、幾らでも推論は出来るがね
635 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:54:25.20 ID:w0ch6b7F0.net
ちょっとぐぐってみた
旧唐書
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun10-kyutosho.htm
645 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 22:58:13.68 ID:rKZcCSkS0.net
>>635
3行で頼む
640 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:55:36.59 ID:w0ch6b7F0.net
日本国は、倭国の別種なり。
だよ中国の認識は
647 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:58:58.32 ID:w0ch6b7F0.net
>>645
>>640
643 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/28(月) 22:57:28.68 ID:VJ5jfaM70.net
方位についてはこういう話もある。
http://6541.teacup.com/chikuzen/bbs/mobile/index/detail/comm_id/5944&reverse=1&fontsize=5?TEACUPRBBS=b11b6e0b3de44f07b258ea5c8a80feda
> 奈良朝以前の日本語である上代日本語では、方位をあらわす語彙は、東西南北に「ひむかし(日迎・シ、シは方位、
>風向を意味する)」「にし(日入にシ、の略とする説あるも?)」「みなみ」「きた」の四語が、揃っていますが、上代日本語
>以前の三世紀代の卑弥呼の時代の倭人(伝)語段階の古代日本語では、方角語が4語存在したかどうかが、疑問です。
>おそらく、日の出る方向(ヒムカシ)とその反対方向(西)の二方向しかなかった可能性が高いと思われます。
>その根拠の一つは、日本語の姉妹語である琉球語にあります。琉球語では、東は、「てだがあな」即ち「太陽(てだ)の
>(住んでいる)穴(洞窟)」ですが、上代日本語「ひむがし」につらなる「ひが」(沖縄の人に多い比嘉さんは実は東さんの
>ことですが、薩摩支配後に、「異国」観を強める為に、ヤマト風の姓氏を、変更させた代表例の一つ。他に、平→平良、
>河内→幸地など)も、あります。
> 「南」については、「みなみ」と言う語彙はありますが(日本語から入った?)、殆ど使用されず「はへ」(はえ)で「南/南風」
>を意味します。つまり、古代琉球語には、「みなみ」なる語彙は存在しなかった可能性が高いのです。日本語と琉球語の
>祖語たる日琉祖語段階では、「南」を意味する語彙は、存在しなかった可能性が強いと思われます。
>次に「西」と「北」ですが、琉球語では「にし」もありますが、古くは、殆どが「いり」(日の入り)です。更に問題なのが、「きた」
>です。琉球語に「きた」と言う語彙はありますが、語義は
> 「風、方向は未詳。日本古語では「きた」は、方角とともに北風も意味するが、オモロでは、「にし」が北の方角とともに北風
>も意味するから、「きた」は北風ではない。(角川書店『沖縄古語大辞典』)
>とあります。
> つまり、「にし」が、「北・北風」を意味していたのです。日琉祖語段階では、四方向語(及び風位も)は存在せず、日本語
>祖語と琉球祖語分離後に、方向・風位を表す語彙が、それぞれ別個に発達した事が解かります。四方向語が成立する前
>の古代日本語(倭人伝語段階?)では、東・南と西・北の方向や風位は混用されていた、と言うよりも、日の出の太陽に向
>かう方向と、その逆の方向(日の入りの方向)の二方向のみを区別しており、四方向語は少なくとも倭人の統一言語の語彙
>としては、存在していなかった、と言う事でしょう。
http://6541.teacup.com/chikuzen/bbs/mobile/index/detail/comm_id/5944&reverse=1&fontsize=5?TEACUPRBBS=b11b6e0b3de44f07b258ea5c8a80feda
> 奈良朝以前の日本語である上代日本語では、方位をあらわす語彙は、東西南北に「ひむかし(日迎・シ、シは方位、
>風向を意味する)」「にし(日入にシ、の略とする説あるも?)」「みなみ」「きた」の四語が、揃っていますが、上代日本語
>以前の三世紀代の卑弥呼の時代の倭人(伝)語段階の古代日本語では、方角語が4語存在したかどうかが、疑問です。
>おそらく、日の出る方向(ヒムカシ)とその反対方向(西)の二方向しかなかった可能性が高いと思われます。
>その根拠の一つは、日本語の姉妹語である琉球語にあります。琉球語では、東は、「てだがあな」即ち「太陽(てだ)の
>(住んでいる)穴(洞窟)」ですが、上代日本語「ひむがし」につらなる「ひが」(沖縄の人に多い比嘉さんは実は東さんの
>ことですが、薩摩支配後に、「異国」観を強める為に、ヤマト風の姓氏を、変更させた代表例の一つ。他に、平→平良、
>河内→幸地など)も、あります。
> 「南」については、「みなみ」と言う語彙はありますが(日本語から入った?)、殆ど使用されず「はへ」(はえ)で「南/南風」
>を意味します。つまり、古代琉球語には、「みなみ」なる語彙は存在しなかった可能性が高いのです。日本語と琉球語の
>祖語たる日琉祖語段階では、「南」を意味する語彙は、存在しなかった可能性が強いと思われます。
>次に「西」と「北」ですが、琉球語では「にし」もありますが、古くは、殆どが「いり」(日の入り)です。更に問題なのが、「きた」
>です。琉球語に「きた」と言う語彙はありますが、語義は
> 「風、方向は未詳。日本古語では「きた」は、方角とともに北風も意味するが、オモロでは、「にし」が北の方角とともに北風
>も意味するから、「きた」は北風ではない。(角川書店『沖縄古語大辞典』)
>とあります。
> つまり、「にし」が、「北・北風」を意味していたのです。日琉祖語段階では、四方向語(及び風位も)は存在せず、日本語
>祖語と琉球祖語分離後に、方向・風位を表す語彙が、それぞれ別個に発達した事が解かります。四方向語が成立する前
>の古代日本語(倭人伝語段階?)では、東・南と西・北の方向や風位は混用されていた、と言うよりも、日の出の太陽に向
>かう方向と、その逆の方向(日の入りの方向)の二方向のみを区別しており、四方向語は少なくとも倭人の統一言語の語彙
>としては、存在していなかった、と言う事でしょう。
791 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/29(火) 01:34:32.03 ID:itoydCPO0.net
>>780
帯方の東南大海とあるのに、どうして九州説論者は南の九州ばかりにこだわるのか。
中国の方位は点ではなく方面だし。
おまけに当時の倭語の方位は>>643の可能性もある。
帯方の東南大海とあるのに、どうして九州説論者は南の九州ばかりにこだわるのか。
中国の方位は点ではなく方面だし。
おまけに当時の倭語の方位は>>643の可能性もある。
794 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 01:59:49.52 ID:Ew/L3kqG0.net
>>791
倭のガイド的な使者に方角を日の出の方、日の入りの方、の二方角しか概念が無かったとする
それをそのまま鵜呑みにして方角を間違えて書いてしまう帯方郡の官吏がそこまでアホだった理由は?
796 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 02:14:45.56 ID:1YTWYXg30.net
>>794
方角もわかんないような奴が船の長旅なんかできるわけないしガイドもできるわけないからな
なんで方向間違い説なんてありえない説を支持するんだろうな
ヤマトと邪馬台は関係ない
それでいいじゃないか
798 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/29(火) 02:19:39.78 ID:itoydCPO0.net
>>796
どうして方角がわからないと解釈するのかな?
現代人のエゴだろw
677 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 23:14:59.42 ID:D09D0C0r0.net
有名な稲荷山古墳の鉄剣、江田船山古墳の鉄剣を見ればわかる通り、
九州は朝廷に豪族の子弟を送って職務に従事してるのが分かっている
これは記紀の雄略天皇の記事や、後の磐井の乱の記事からも見える
主従の関係は普通にある物見ただけでかなりハッキリとわかるからね
この使者を派遣したのが雄略天皇
倭の五王の系譜とも合致する点が多いんでほぼ実在が確定してる
九州は朝廷に豪族の子弟を送って職務に従事してるのが分かっている
これは記紀の雄略天皇の記事や、後の磐井の乱の記事からも見える
主従の関係は普通にある物見ただけでかなりハッキリとわかるからね
この使者を派遣したのが雄略天皇
倭の五王の系譜とも合致する点が多いんでほぼ実在が確定してる
684 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 23:19:58.68 ID:3xtn7cpk0.net
>>677
邪馬台国よりも100年以上後の時代に服属していたことを根拠に
さかのぼって100年前も服属していたとするのは無理がある
畿内説では無理やり年代遡上するのが好きだねえ
690 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 23:26:55.06 ID:D09D0C0r0.net
>>684
本当に「そこだけ」でレス書くの止めてくれないかなぁ
九州はかなり早い段階から古墳体制に組み込まれている
その地位は一貫して変わってないよ
むしろ鉄剣の発見は九州が近畿に支配されていたと言う確定的証拠となる物
九州の大古墳は皇室と縁戚になった后が出た土地に作られてる
九州ってのは古代を通じてそういう土地なんだよ
九州王朝なんて独立したものはまず考えられないし、ましてやそこが倭だったとか最早何が何だか
何度も言うけど他の資料も総合的に見てから判断しないと説にならないよ
701 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 23:35:13.29 ID:3xtn7cpk0.net
>>690
おまえさあ年代わかってるのか?
稲荷山古墳、江田船山古墳は4〜5世紀
倭の五王は5世紀、雄略天皇は5世紀後半
磐井の乱は6世紀
卑弥呼がいたのは3世紀中盤の話だ
100年以上後に服属していたからと言って
邪馬台国の時代に服属していた根拠にならないだろ
しきりに魏志倭人伝から100年以上後の資料の整合性とか言っているが
本当に畿内説は年代を恣意的に繰り上げるのがすきだな
世間ではそれを改ざんとう言うんだよ
そんなに自信があるなら学会で発表してみたら?
705 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 23:40:37.16 ID:D09D0C0r0.net
>>701
つか何度も何度も言うけど九州はかなり初期の段階から前方後円墳を採用して大和朝廷の支配下に収まってる
三世紀の末
それこそ卑弥呼と同時代にはすでに前方後円墳がある
稲荷山の鉄剣は「それがさらにはっきりと確定した物証」と言ってるんだよ
九州は邪馬台国の時代から既に邪馬台国の影響下にあり、倭の五王の時代には物証も見つかってると言う
分からないかなぁ
俺のレスもちゃんと読んでないでしょ
713 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 23:49:16.03 ID:rKZcCSkS0.net
ニギハヤヒってのは誰なんだよ
天皇が奈良を治める前にも奈良には国があったわけだろ?
731 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 00:13:35.11 ID:Iu0CGSNI0.net
って言うかそもそも九州説なんて国粋主義の本居宣長が江戸時代に「朝貢なんてするわけがない」と言い出した話だし
わざわざ「ヤマタイ」なんて南方風の読み方したり
そして戦後になって日本の歴史は全てウソと言う風潮に乗っかって騎馬民族征服だの訳の分からん話の中で更にヒートアップ
それが近年になって東大と京大の学閥論争になって、
それに乗っかった素人が「俺の地元がそうだった」とか言い出してご当地祭りになっただけ
アホらしい
747 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/29(火) 00:39:51.55 ID:INyVGt720.net
前方後円墳って卑弥呼の時代にあったの?
757 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 00:45:52.98 ID:Iu0CGSNI0.net
>>747
それこそ卑弥呼と比定されることの多い、
倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳が「古墳時代の幕開け」となる前方後円墳だよ
それまでの墓とは規模の全く違う巨大古墳が突如現れた
だから日本で初めての統合的な政権である大和朝廷誕生の原点と注目されてる
つか本当にただの地方領主の話なら別に大層な意味はないしね
748 名前:396[] 投稿日:2016/03/29(火) 00:40:03.77 ID:ApYw2XaH0.net
九州説は魏志倭人伝以外に拠り所が無い。
単一の書物も精密に解釈しても本質は見えない。
多面的な証拠が全くないのも九州説。
魏志倭人伝だけは信じるが国内の記紀は物証は
ねつ造と思考停止するのも九州説。
単一の書物も精密に解釈しても本質は見えない。
多面的な証拠が全くないのも九州説。
魏志倭人伝だけは信じるが国内の記紀は物証は
ねつ造と思考停止するのも九州説。
759 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 00:48:54.37 ID:6eaOU5UW0.net
>>748
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国を比定するのに
第一級資料の魏志倭人伝を無視するほうがおかしい
考古学的に九州説は物証が多いが畿内説はほぼ無し
記紀を考慮するにしても卑弥呼は記紀の誰に当たるんだよ
畿内説はろくに根拠も示さずに妄想とこじつけだけなんだよな
畿内説の根拠なんて見たことないwww
764 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2016/03/29(火) 00:54:52.23 ID:ApYw2XaH0.net
>>759
>第一級資料の魏志倭人伝を無視するほうがおかしい
無視はしないが、それ一辺倒というのもどうか。
800 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 02:21:30.18 ID:Iu0CGSNI0.net
日本の人口の大半を九州だけで抱えている
・同時期に九州よりも大規模な集落が本州にある
・吉野ヶ里は肝心の卑弥呼の時代とされる頃に衰退する。肝心の女王国や投馬国に類する大集落が無い
広域連合の存在を示すような物はなく女王国の記述に合わない
・墓制、祭祀などが各集落でバラバラで宗教的統合も政治的統合も見られない
100余歩を超えるような大型墳が無い
・記述の通りなら150mほどになるがそんな規模の墓はない
これで倭人伝通りだの物証が大量にあるとか言うんだから面白いな
806 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 02:38:15.09 ID:Ew/L3kqG0.net
>>800
畿内説主張者かなんかわからんが恣意的すぎて破綻してるよね
もう破れかぶれ?
>・同時期に九州よりも大規模な集落が本州にある
同時期とは魏志倭人伝の記述の100年後であれば九州から神武東征の後だよね?
>・吉野ヶ里は肝心の卑弥呼の時代とされる頃に衰退する。肝心の女王国や投馬国に類する大集落が無い
衰退とは何を以って推定している?箸墓の年代推定と同じで恣意的推定って奴?
>・墓制、祭祀などが各集落でバラバラで宗教的統合も政治的統合も見られない
逆に倭国大乱の直後に宗教や文化まで統合されてる方がおかしい
その数百年後の律令制の頃でさえ、御触れが回るのに十数年〜数十年を要している
>100余歩を超えるような大型墳が無い
>・記述の通りなら150mほどになるがそんな規模の墓はない
「魏志倭人伝」に記述できる年代に作られた墳墓は九州以外のどこにある?
803 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 02:28:10.29 ID:Iu0CGSNI0.net
九州だと強弁する割には「じゃあどこなの?」と聞くと何にもない
近畿は纏向の大規模宗教遺跡に加えて、近年に卑弥呼の年代にあたる時代の大宮殿跡も発見されてる
更にこの宮殿跡は後の大和朝廷時代とも連続性が認められている
集落については中西、秋津遺跡と言う大規模な集落が見つかっている
墓については最有力の箸墓がある
これも複数の年代測定法によって確定とは言えないが大体年代が分かっている
纏向も中西遺跡もまだ発掘途中だからさらに色々なものが見つかるだろう